平安時代(794-1185A.D.)

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   平安時代は 日本の首都が平安京に遷都されてから始まり、鎌倉幕府の設立により平安時代は鎌倉時代へと移り変わります。平安時代の早期には桓武天皇の政権が強く、天皇は国を支配しました。桓武天皇以降、天皇の政権は強く周りの貴族が天皇以上の力を持ちはじめることはありませんでしたが、時が過ぎ貴族が力を伸ばし朝廷内での官職を獲得のため 他の貴族たちと権力争いを始めます。藤原氏と平氏は平安時代に天皇の外戚となることにより力を伸ばします。藤原氏は平安時代中期に栄え、平氏は後期に栄えます。平氏は貴族ではありませんが皇族の出身です。平氏は安徳天皇の母方の外戚となり朝廷での地位を独占しましたが、平氏によって地位を追われた貴族たちは平氏に反感を抱きます。平氏に対する反感は増加し、源頼朝によって起こされた平氏追討により平氏は没落します。平安時代の文化の特徴は大陸からの唐文化を消化・吸収し、その文化が日本文化と融合したことです。平安時代の貴族の生活は優雅であり豪華のようにも思われますがその生活の背後には陰謀も渦巻いていました。そして平安時代は約400年続き、時代は鎌倉時代へと移りかわります。

   首都は784年に平城京から長岡京に変わりました。しかし長岡京に遷都して以降、桓武天皇の周りで不幸が続くということが起こりました。はじめは 長岡京の建設を担当していた人が殺され、そして桓武天皇の母と妻も次々と長岡京にて亡くなります。祟り以外には考えられないという考えから、首都が長岡京に遷都されてから10年後、首都は平安京に移されました。 そして政治の中心は約400年のあいだ平安京にあり、平安時代初期は天皇の強い政権により国と人々が支配されていました。

   貴族が地位の高い官職につく場合、彼らは秀でた文学者、天皇の外戚、もしくは優れた政治的能力が無ければなりませんでした。そして朝廷内での権力争いから 貴族は他の貴族に対して陰謀を企てることがしばしば起こりました。今日では学問の神様として有名な菅原道真も陰謀によって大宰府に左遷されたうちの一人です。彼は優れた文人でもあり学者でもあったことから 右大臣という官職を得ることが出来ました。しかし彼は藤原時平によって無実の罪をきせられ、九州にある大宰府に左遷されます。道真は醍醐天皇に無実を訴えますが醍醐天皇は道真を信じませんでした。そして道真の死後、彼に無実の罪を着せた藤原時平とその陰謀に加担した人物が道真の祟りにより命を落としたとなっています。藤原氏は天皇の外戚になり朝廷での地位を確立します。そして摂関としての地位を独占しました。しかし時が経ち平安時代後期にはその政権は平氏の手に移ります。 平氏は朝廷でのほとんどの官職を独占し、支配し始めました。平氏は藤原氏が行ったように彼らの娘を天皇と結婚させ、次期天皇の外戚となりました。平氏は宋王朝との貿易を重視し、その利益を平氏の基盤としていました。 多くの貴族が官職から退けられ、平氏が官職を独占するという行き過ぎた行動が目立ち始めます。これにより平氏への反発が強くなり、平氏の没落を導きました。平安時代も他の時代に見られるように、初期には天皇の強い政権がみられ、中期から後期にかけては貴族によって政治が支配されていきます。

平等院

   平安時代の文化の特徴 は大陸からきた唐文化の消化・吸収、そして日本文化と唐文化を融合した新たな文化の発展です。平安時代中期には文字を使うことにより文学が発達しました。音楽も平安時代の早い時期に栄えます。 仏教では新しい宗派の天台宗と真言宗が二人の僧によって伝えられたのもこの平安時代でした。

  唐文化の影響は貴族が住んでいた家などにも見られます。たとえば、建物を廊下でつないでいる中国の建築物の形が日本の当時の貴族の邸宅にも用いられました。しかし全てを唐王朝の建物の様にしたわけではなく、家の形や仕切りなどは中国の建物とは異なりました。この時代の貴族の家は主に寝殿造りです。 寝殿造りとは建物の南向きを中心として南には池があり、そして西、

東、北の建物を廊下でつなぎ、その建物は寝殿を中心とし左右対称に建てられています。中国絵の技法を用いて日本の風景を描いた大和絵が出来たのもこの時代でした。そしてこのような絵は部屋の仕切りとして使われた屏風や襖などに描かれました。

 平安時代に貴族の間で文学が発達した背景には女性の活躍も多く見られます。資料によると、漢字から作られた平仮名は女性に使われ、漢字をより簡略化したカタカナは僧によってつかわれました。男性以外が漢字を使うことはあまりよく思われていませんでしたが、宮中に上がる女性には高い教養が求められました。女性が平仮名を使うことにより短歌や物語そして日記を書き始め、数々の作品がこの時代に生まれました。漢字を使い男性に引けをとらない才女として有名だったのが枕草子の作者である清少納言。そして紫式部によって書かれた源氏物語は日本最古の長編物語でもあります。源氏物語とは宮廷生活を舞台に主人公の光源氏と彼の周りの人物を描いた物語です。自然などに対する感情は短歌として書き残されたり、手紙のやり取りとしても短歌は使用されまし た。

  (ある資料によると、紫式部は気の強い女性でもあったらしく紫式部は彼女の夫とけんかをした時、彼女の夫のほうが謝ったそうです。この当時、夫婦が一緒に住まないということは珍しいことではなく、全ての喧嘩は短歌でやり取りされたようです。)

  楽器は奈良時代に中国と朝鮮から伝来しましたが 雅楽が栄えたのは平安時代でした。資料によると、貴族は頻繁に楽器を奏で、踊り、食事をし、そして酒を飲むという宴を夜を徹して行っていたようです。これは「人間の体に宿る虫が寝ている間に天にのぼり、その虫の主人の悪い諸行を神に伝え主人の命を短くする」という迷信から 人々は寿命を短くしないため宴を行っていたようです。宴といえば楽しいことのように思えるのですが、このような事が背後にあると貴族もなかなか苦労していたのかも知れないと思えます。逆に言うと、悪いことをしていなければそれを恐れず眠ることも出来ます。

文字の形成

 三つの文字の形が日本では使われています。これらは それぞれ平仮名、カタカナ、漢字とよばれ、漢字は古代にあった中国王朝から稲作と道具技術の伝来と同時にもたらされました。上流階級の人々は文字を外交、記録、他国からの文学の勉強のために使いました。 そして読み書きが出来たのは殆どが男性でした。漢字は中国から伝来したものですが、全ての漢字が中国から来たのでは無く その一部は日本人によってもつくられました。平仮名と片仮名は平安時代に作られ、上記でも述べたように平仮名は漢字を簡略化して作られたもので、女性たちによって頻繁に使われました。片仮名は漢字をより簡略化したもので僧たちにより中国から来た経典を読むためにつくられました。

短歌

   平安時代の人々は文字を使って彼らの感情を詩に書き残したため 本や百人一首などに載っている多くの歌は平安時代からのものです。 この詩を短歌といい、短歌は31音節から構成されています。その音節は5・7・5・7・7にわけられ、これが短歌を作るときの方式です。短歌は 多くの人々に親しまれますが、貴族や僧によってもっとも多くの短歌が残されました。僧は自然や、生活、そして世界について語り貴族は自然、生活、世界、恋愛などについて語っています。貴族は短歌で遊び そして手紙のように短歌のやり取りなどもありました。

   しかし全ての人が短歌を得意としたわけではく、すばらしい短歌を書いた人々は歴史的に名前が残っています。短歌は今現在も人々に親しまれていますが、手紙として書かれているのではなく 一つの趣味として楽しまれています。

雅楽

      大陸音楽は1400年~1600年前に中国と朝鮮の王朝から古代の日本に伝えられました。飛鳥時代にいた聖徳太子は仏教に熱心で、仏教を音楽と共に広め始めました。その為、音楽はお寺と強いつながりがありましたが、大陸音楽は中国や韓国にあったままの音楽だったので、まだ雅楽とは呼ばれていませんでした。そしてまた 異なった音楽も別のアジアの国から日本に持ち込まれました。そして唐王朝との外交が終了していこう、これらの音楽が日本人によって発達され、この音楽は雅楽と呼ばれ始めます。

   人々が雅楽を始めて1200年が経ちました。雅楽とは合作曲で、中国と韓国から伝来した音楽とダンスと日本独自の音楽とダンスが融合したものです。雅楽は二つの構成要素に分けることが出来ます。一つは音楽と踊り、これは舞楽として知られています。もう一つは音楽だけであり、管弦と呼ばれています。雅楽の右方と左方では踊りやリズム、そして楽器の違いが見られ、これらは 大陸音楽のそれぞれの国の音楽への影響をあらわしています。

   貴族や皇族は雅楽を習い始め、宮廷音楽として雅楽は親しまれました。天皇は日本固有の宗教である神道を信仰していたため、この音楽は神社でも奏でられはじめました。 そして神社などで舞われる神への信仰のための舞踊は神楽といい、舞楽の一つです。

  現在、雅楽は特定の人々により、伝統的行事や音楽のコンサートだけで演奏されています。しかし雅楽は日本の伝統文化であり そして保持したい文化の一つでもあるため雅楽を他の人々に教え始める人が出てきました。多くの人々が雅楽に興味を持ち それを学んでいる間は日本の伝統的文化から消えることは無いでしょう。

   雅楽の代表的な楽器は管楽器の、篳篥、そして横笛です。楽譜はドレミ・・・などの西洋から来た楽器の譜面のようではなく、漢字や片仮名で書かれています。弦楽器や打楽器も雅楽の楽器として使われています。雅楽や日本の音楽には指揮者がおらず、その為 打楽器の鞨鼓を演奏する人が指揮者の役割を果たし、テンポを調節します。

Picture of a woman in Uchiki from Relico Japan

平安貴族の生活

   この当時の貴族は寝殿造りの邸宅に住みました。十二単は礼装として貴族の女性や女房などに着られていましたが、とても重かったため 歩くのが困難だったようです。着物の着付けを教えている ある講師の方によると、十二単を着ている女性は衣があまりにも重いため、部屋の中ではひざで歩き、座るときは方ひざを立てて座っていたそうです。 貴族の男性は礼装として束帯を着ていました。これらの衣服の基本は唐王朝で着られていた衣服がもとですが、そのデザインを大きく変えて出来たのがこれらの衣服でした。 貴族は毎日このような格好をしていたわけではなく、貴族の女性や女房は普段着として 着る枚数の少ないを着たようです。そして貴族の男性の場合は普段着として直衣または水干を用いたようです。衣の色は重視され季節や状況などにあわせて選ばれたようです。

Picture of a man in Kariginu from Relico Japan

 Picture of Akomeougi( Fan) from Relico Japan

女性が十二単を着たときにもたれる扇が衵扇だったそうです。

  食事においては1日2回が普通でした。そして仏教の影響が強く、彼らが食べたものは 野菜、米、鶏肉、海産物が主でした。料理はつくる過程上で味付けされるのではなく食べる前に塩や酢、そして他の調味料で味つけされました。 資料によると、貴族の平均寿命は短く、その原因は栄養バランスが悪い食事、運動不足、室内中心の生活が原因だったと書かれています。そしてまた、都にいる貴族ものが収穫される場所や魚が取れる場所から離れていたため新鮮な魚などを得ることが出来ませんでした。一方で、庶民の食生活は質素でしたが、食事に対して仏教の影響無く、新鮮なものを食べ、バランスが取れていた為、彼らは貴族よりも健康的だったようです。

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