鎌倉時代
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源 頼朝 は幕府という機関の将軍になった第一の人物です。将軍とは武士の代表であり広大な土地を所有しています。この時代、武士が一人以上の主人を持つことは珍しくなく、主従関係は江戸時代の「武士は一人の主人に付く」または「武士は一つの家に奉公する」とは異なるものでした。 頼朝は現在の警察のような役割を果たす組織を作りました。この組織に属していた人々は守護と呼ばれ、常日頃は治安の維持に携わりますが戦争が起こると兵士にもなりました。頼朝に仕えた武士を御家人といい、頼朝は御家人に対して彼らが先祖から受け継いだ土地の所有権を保障しました。また、頼朝は功績をあげた人に新たな土地を与える新恩給与というものをつくります。これが封建制度の始まりであり、頼朝はこの制度を利用することによって政権を握りました。このように主従関係によって支配が行われる封建制度は鎌倉時代にできたものです。鎌倉幕府が設立されて以来、朝廷の政治に対する権限が徐々に弱まったものの鎌倉時代初期の朝廷の権限はまだ強く、その理由に挙げられるのは 鎌倉幕府が完璧ではなかったという事が原因だったようです。 頼朝の死後、彼の息子うちの一人 頼家が後を継ぐことになりました。しかし 頼朝に仕えた人々は まだ18歳の頼家が頼朝と同じ地位に就くことを良くは思いません。その為 13人の御家人の代表である人々が選ばれ 政治を頼家と共に運営していきます。頼家が頼朝の後を継いで以降、頼家の母である北条正子の血縁、北条氏も勢力が強くなり始めます。北条氏が源氏に変わり将軍になることはありませんでしたが実際の政権は北条氏の手もとにあり、将軍が北条氏の邪魔になれば北条氏は将軍を代えていきました。 北条氏の力が以前にも増して強くなった為、後鳥羽上皇は北条氏の行動を考慮し始め北条氏との間に戦争を起こします。しかし過半数の武士が北条氏に味方したため 戦争を仕掛けた側の後鳥羽上皇が敗れてしまいます。その当時の天皇は上皇の孫にあたったため、仲恭天皇はその地位を追われ、上皇は罪に問われ、上皇に付いた貴族と武士は処刑もしくは罪に問われました。この出来事以降、北条氏は新しい天皇(後堀川天皇)を天皇家の中から選び出し朝廷のすべてに干渉し始めます。将軍職にも親王が北条氏によって就けられ、その結果、鎌倉時代後期には北条氏の独裁政治が行われました。 |
Picture of a mandala from Kyoto National Museum |
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御家人 は鎌倉中期以降、戦も無くそして相続する土地が狭くなっていった事もあり 徐々に貧しくなりました。御家人は生計を立てようと彼らの土地を売り始め、それを知った鎌倉幕府はこの事態を重視してこの問題に取り掛かります。鎌倉幕府が御家人のためにとった政策というものが 御家人が土地を売る行為の禁止、そして御家人の土地を買った人々は無償でその土地を元の御家人に返却するというものでした。そのため、御家人の土地を買った人々は大きな損失を被ります。しかしその政策も一時凌ぎにしかならず 後々御家人をも苦しめるはめになりました。 当時の武士は武士の居住地に住み簡素な服を身にまとっていたようです。彼らの食事は1日2回。ほとんどの武士は高い教育を受けてはおらず、日々 武芸に励んでおりました。彼らは道徳を築き、それは今日「武士道」と呼ばれ知られています。 |
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農業の拡大、手工業の発達、そして生活 鎌倉時代、ほとんどの物は農村でつくられ、それが各地に運搬されていきました。二毛作が行われることにより収穫高は向上します。他にも新しい農具の開発、牛馬などを使っての畑の耕作、水車の使用などが収穫高を上げる結果になりました。手工業は農作業の副業として発達していきます。例えば絹、紙、そして漆細工などを作ることが農作業の傍ら人々の間で行われたようです。副業で生計を十分立てることが出来る人々は手工業者となり、税金の代わりに作った物を納入することにより税を支払っていました。お米を作っていた人々は 収穫高の30-40%を税として収めていました。手工業が発達することにより それぞれの地域に特産品ができ、それらは各地方に流通しました。 この時代、日本は中国の宋王朝と貿易をしており 中国の貨幣が貿易をとおして日本に大量に輸入されました。その為、貨幣制度が普及され、相互金融システムの需要もあがりました。 貿易に伴い商人や僧侶の日本と宋王朝の行き来も多く、宋王朝にあったお茶を飲むという習慣は禅僧の栄西によて持ち込まれました。はじめのうちは貴族や禅僧に好まれたその薬としての喫茶の習慣も 次第に一般へと広がりました。 |
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蒙古襲来 元の最初の皇帝、フビライは鎌倉時代に日本を2度攻撃しています。フビライの目的は日本が元の従属国として入貢することでしたが、日本がそれを断った為に フビライは1274年に日本を急襲します。しかし、モンゴル軍と日本軍が対戦している場所に暴風が吹き荒れ モンゴル軍はそれにより多大なダメージを受け軍を率いて一度撤退しました。 その翌年 1275年、フビライは日本に従属を再度要求してきましたが 日本もまた拒否をします。そしてフビライは1281年に2度目の攻撃を仕掛けてきますが、台風が戦場を直撃しモンゴル軍は戦力を失います。 フビライは3度目の攻撃を仕掛けようとしましたが 元の支配に反抗する人々の反乱のため、3度目の攻撃は実行されることがありませんでした。 |
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鎌倉時代の終わり 蒙古襲来後、御家人の生活はますます苦しくなりますが 幕府はその状況に対応できませんでした。そして、多くの御家人が北条氏によって支配されている幕府に不満を持ち始めます。後醍醐天皇はこれを好機とし、政権を朝廷に取り戻すために討幕に取り掛かれますがこの計画が明るみになり失敗に終わります。しかし各地で幕府に対する反乱が起こり、後醍醐天皇のもとに多くの武士が討幕のため募り始めます。後醍醐天皇はひそかに足利尊氏と連絡を取り 共に鎌倉幕府を滅ぼすことになります。 |
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