安土桃山時代(1575〜1603)
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安土桃山時代の始まりは室町幕府の終わりと 共に訪れましたが この時代は南北朝時代と同じく あまり長くは続きませんでした。織田信長は戦国時代そして安土時代の戦国大名であり、足利家の後に日本を統一しようと試みた人物でした。信長は毛利氏との戦の前に京都本能寺に泊まっていたところを 彼の家臣の一人の明智光秀に よって襲われ自刃します。これを本能寺の変と呼びます。しかし明智光秀もまた 本能寺の変から3日後、豊臣秀吉により討伐されました。織田信長の死後、彼の家臣であり彼の後を引き継ぎ日本を統一したのが豊臣 秀吉でした。秀吉は関白に就きますが、彼は晩年に中国への道を確保するため韓国を占領しようとしますが韓国との戦いに敗れてしまいます。そしてこの敗戦がきっかけとなり、豊臣政権は衰退していきます。織田信長と豊臣秀吉によって行われた仏教の弾圧により 他の時代に比べて安土桃山文化には仏教の影響が強く現れていません。いくつかのヨーロッパからの物などが貿易 商や宣教師に持ち込まれ、現在の日本に存在する言葉でスペイン語やポルトガル語に語源がある言葉の多くは安土桃山時代に伝えられました。 この時代の名前は地域の名前に由来しており、安土は信長が今の滋賀県に安土城を立てたことから、そして秀吉が晩年を過ごした伏見城に桃の木が植えられ その地が桃山と呼ばれたことから、この二つの地名をあわして安土桃山時代と呼ぶようになります。 織田信長の敵は戦国大名だけではありませんでした。信長の支配に反抗し一向一揆に参加した一向宗の僧侶そして門徒の農民もまた信長の敵でありました。一向一揆は本願寺の門主、顕如によって起こされます。長期に亘った戦いも信長によって鎮圧され、顕如は彼の居た石山から追放されます。仏を信じない信長による仏教への弾圧は厳しく、その反面、彼は宣教師のキリスト教布教活動を援助しました。資料によると、信長が仏教弾圧を激しく行った 理由は信長 の過去にあった経験が原因のようです。信長の父親の回復を願って僧侶を呼び祈祷させたにもかかわらず彼の父親はまもなく亡くなります。以来、信長は無心論者になったと記されています。。彼は異なった宗教に好奇心を抱いたか否かはわかりませんが キリスト教を弾圧しなかったことは資料にも記されています。 そして信長がまだ生きていたとき 彼は宣教師に会います。 宣教師は一人のアフリカ人を連れており、そのアフリカ人は日本語を少し話すことが出来ました。信長は彼に興味をもち そのアフリカ人を信長の下に置きました。しかし 本能寺の変によって信長は自刃し、そのアフリカ人は明智光秀によって捕らわれてしまいます。そして彼はしばらくしてから宣教師たちのもとに帰されますが その後の彼についての記録は残っていません。そして、これがアフリカ人が遠い国から海を渡って日本にきた初めての例です。室町時代に設立された関所は商品の流通と輸送の障害になるため撤廃されはじめ、そして信長は全ての商人が城下町に店を開くことを承認します。 豊臣秀吉はキリスト教の布教活動を認めていましたが、彼の計画の妨げになったためキリスト教への弾圧を始めます。 秀吉はキリスト教を信仰する大名を厳しく取り締まり、そして宣教師を国内から追放しました。しかしヨーロッパの国々との貿易はキリスト教弾圧の後も続きます。宣教師は貿易者と共に日本に来ることができ、弾圧の状況下でもキリスト教を広めることが出来ました。中国の明王朝が衰退していたことを機に 秀吉は明王朝にとって代わろうと試みます。この計画を実行するにおいて韓国を占領し、明王朝への確実な道を作る必要がありました。その為、1587年に秀吉は韓国に大軍を送り込み韓国の一部の土地を占領しましす。秀吉は韓国の残りの地域を支配しようとしますが 結局はこの戦いに敗れ、何も得ることが出来ませんでした。秀吉の計画はただ韓国の人々と秀吉の指示に従って動いた人々を苦しめただけに終わります。秀吉の死後、徳川家康の勢力が強くなり、政権争いが原因となり徳川と豊臣の間に戦が起こりました。これを関ヶ原の戦いといいます。この戦いで 徳川家が勝ち、1603年に江戸幕府が創設され江戸時代の始まりとなります。
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