南北朝 & 室町 時代

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Picture of Armor from Kyoto National Museum

南北朝時代

   鎌倉時代から室町時代へ移り変わる時、その両時代の間に南北朝時代があります。南北朝時代の始まりは1333年、そしてこの南北朝時代は分かれていた2つの朝廷が1392年に一つに戻り終わりを迎えます。後醍醐天皇は鎌倉幕府滅亡後、政権を取り戻し政治の一部を導いておりましたが 新たな政治は長くは続きませんでした。その原因としては人々の意見の衝突があげられるでしょう。貴族は平安時代のような貴族政治を望み 武士は鎌倉時代の様な武家政治を望みます。それぞれの政治は両者にとって有益なものではなく この意見の衝突を後醍醐天皇は解決することが出来ませんでした。

   新しい政治への武士の不満は高まり、北条時行によって中先代の乱が引き起こされます。武士の代表、足利 尊氏が後醍醐天皇に将軍職の要求と足利尊氏の北条時行討伐を要求しますが後醍醐天皇はその要求を拒否します。

足利 尊氏は後醍醐天皇の許可無く中先代の乱を鎮圧そして北条氏から鎌倉の地を取り返し、朝廷への反抗の態度をとり始めます。後醍醐天皇は、新田 義貞を足利尊氏討伐にさしむけましたが新田 義貞は尊氏によって負かされてしまいます。 義貞を追跡し尊氏は京都に到着しますが北畠顕家にやぶれ、尊氏は九州に逃げ延びます。尊氏は落ち延びたその地にて勢力と力を蓄え京都に戻り 京都を制圧します。彼は1336年に新しい天皇を擁立し、同年 室町幕府は京都に設立されます。

   後醍醐天皇は京都から脱出し、行き着いた土地である 奈良の吉野に朝廷を設けます。京都にある朝廷は北朝と呼ばれ、奈良にある朝廷は南朝と呼ばれました。南朝と北朝の間には政治的対立があり この状況がおおよそ60年ほど続きます。

 1368年、足利尊氏の孫である足利義満が三代将軍を11歳の若さで引き継ぐことになりました。そして足利政権は義満の時代に安定し始めます。朝廷の下にあった政権は室町幕府によって取り上げられ、将軍の力はますます強くなりました。同時代に後醍醐天皇の息子、懐良親王が九州にて勢力をのばしておりました。その為、義満が九州を制圧する1372年まで九州には義満の政治権力が及びませんでした。

 

      南北朝文化 室町文化の一部でもあります。南北朝時代には頻繁に戦が起こったことから いくつもの軍記物語や歴史書物などが書かれました。連歌は和歌の余興として鎌倉時代に親しまれましたが、室町時代には余興でしかなかった連歌が人々の間で親しまれ始めます。茶は12世紀には薬と考えられていましたが、この時代、人々は喫茶を薬としてではなく楽しみ始めます。 一部の人々は派手な衣装を身にまとい、とても贅沢な生活を送っていたそうです。そしてこのような人々は いつも詩、華道、茶道、そしてその他の流行の最先端にいました。朝廷内での遊びは一般の人々にも広がり、人々はその新しい習慣を楽しみます。そしてこの南北朝文化は他2つの室町文化の基礎でもあります。

   室町時代は北朝と南朝が義満によって統一されてから始まります。南朝の後亀山天皇 が京都に戻り天皇家に伝わる三種の神器を北朝の後小松天皇に譲位します。この2つの朝廷を統一するために義満は2人の子孫を交代に天皇に就けると約束をしますが、義満は後亀山天皇の血統を絶やすため、彼の子孫を次々と出家させました。

南北朝時代、明王朝が他のアジアの国々のように日本に従属国の要求そして倭寇と呼ばれる海賊の取締りを日本に要求してきました。明王朝からの使者は九州に着き懐良親王と連絡を取ります。懐良親王としては 明王朝の洪武帝と対等の立場でありたかったのですが 親王の置かれている状況が足利義満との対立状態であった為、明からの援助を期待し 朝貢を始めます。 しかし、結果的には明からの助けを得ることが出来ず義満に敗れてしまいます。義満は九州を制圧後 明王朝の皇帝に朝貢を試みますが洪武帝は義満が家臣の地位であるという理由で 義満からの朝貢を拒否します。 しかしこの後、義満の権力は朝廷をしのぐほど強くなり日本国王として振舞います。その結果、義満は明王朝と交易することが可能になり朝貢の品として明王朝に、金、銅、扇などを送りました。 明王朝からの朝貢の返しの品は絹織物、工芸品、そして書物などでした。日本が朝貢という形をとり 明王朝と貿易を行ったため、旅費と宿泊費はすべて明王朝が支払い これにより日本は大きな利益を得ることが出来ました。この貿易は将軍が変わると共にしばらくの間廃止されましたが、一般の人々は中国との貿易を続けておりました。この人々は中国からの品物を日本で売ることにより多大な利益をあげていたことから、室町幕府は貿易商から税金を集めています。室町幕府の財政は 足利家の所領、高利貸し、関所、禅寺からの税金によって支えられていました。しかし関所は物資の流通の妨げとなるため、後の時代において廃止されます。

   将軍の力は強く、全ての反乱はその力により鎮圧されました。しかし足利義教が六台将軍を継ぐと この状況は変わり始めました。彼は恐怖で政治を支配し、彼に意見をした多くの貴族、神職者、僧侶、女房が犠牲になりました。 この恐怖政治と足利政権への反乱のため 将軍の権力は弱まり始めます。応仁の乱は九代将軍の擁立と幕府の実権の掌握を巡って細川家と山名家の間で引き起こされ、京都は戦場となってしまいます。多くの貴族そして僧侶が戦争を逃れ地方へと流れていきました。その結果、京都で栄えていた文化が地方にも行き渡ることになります。足利義澄が十代将軍に就いた時には政権は細川氏の手にありましたが、政権は次から次へと人の手に渡ってゆきました。下位の者が上位の者の地位や権力を奪う「下克上」が激しく見られ、典型的な下克上の例は 永松 久秀によって十三代将軍が暗殺されたことです。この暗殺事件以降、室町幕府の政権は無くなり京都は政治的に不安定の状態が続きます。このような状態の中、地方ではさまざまな階級出身の武士が地方政権を確立します。この武士たちを戦国大名と呼び、応仁の乱以降の一世紀を戦国時代と呼びます。

   戦国時代、ポルトガル人が種子島に到着し、そして1543年、彼らによって火縄銃が日本に伝えられます。火縄銃は戦国大名の間で瞬く間に広がり、この銃の使用により今までの戦術そして城の防御が銃撃戦に備えて変わります。そして時がたつにつれて、火縄銃は日本でも生産され始めました。 スペイン人が長崎の平戸に来航したのが1584年。平戸と長崎での貿易は栄え、京都、博多、堺の商人が異国からの品物を手に入れるため長崎にまで足を運びます。貿易商品は中国産の生糸、火薬、そして銃でした。この時代の日本では生糸の製法がまだなく、中国から生糸を購入していました。ヨーロッパ人が中国に一度立ち寄って生糸を購入し、それを日本との貿易の商品として取り扱い始めた背景には 日本の良質な銀が目的だったものと思われています。宣教師も貿易商と共に海を渡って日本にたどり着き キリスト教を日本人に伝えはじめます。日本にはじめてキリスト教が伝来したのは1549年のことで、スペイン人のフランシスコ・ザビエルによって伝えられました。宣教師は日本でのキリスト教布教活動に専念し、学校、教会、宣教師訓練学校などを創設。キリスト教信者の数は徐々に増え、記録によるとその数は15万人に達したそうです。多くの出来事が室町時代に起こりましたが 室町時代は十五代将軍が織田信長により京都から追放され室町幕府滅亡と共に終わりを迎えます。

Picture from National Museum of Japanese History

 

 

 農業と商工業   

             室町時代の農業は鎌倉時代と比べると発展し、今まで限られた地域でだけで行われていた二毛作、鉄製農具の使用、牛馬の使用が全国に広がりました。15世紀には三毛作も機内を中心に行われていたようです。肥料の使用と水稲の品種改良により、作物の収穫が安定し、生産高の上昇は農民を裕福にしました。茶、漆、そして他の作物栽培が拡大され、これらの作物は商品化されました。これらの商品の需要と供給は高まり品物は遠く離れた地域にも運ばれ、農民は貨幣経済の成長には欠かせない存在でありました。彼らはまた収穫したものから商品を作り、漆工芸の“蒔絵”などは この時代に発達しました。人々の間で手工業が発達し、それぞれの地域に特産品が出来始めます。例えば、京都と他の2~3の地域ではお酒が特産品でした。陶器や織物もこの時代に発達し、西陣織の基礎も室町時代に出来ました。 女性も行商人として活躍し、魚、布、扇、豆腐などを売っておりました。そして女性もまた室町時代には商業や金融業にも従事していました。

     生産の上昇により、市が月に3度から6度にふえ、いくつかの市では特定の商品だけを扱う等という事が始まります。このような状況から各地からの品物の流通と人々の間での貨幣の流通の浸透がわかります。そして、人々は税を品物で納入するのでは無く、お金で税を払い始めます。

 

Picture of Gold Lacquer from National Kyoto Museum

Picture of Nishijin Textile

北山文化 には、足利義満が中国の文化に大変興味があった事から中国文化の影響を色々な物に見ることが出来ます。禅僧は明王朝へ行き禅 の思想などを学びます。また、何人かの中国からの禅僧も日本に訪れました。 この中国文化の影響は水墨画や室町時代初期の建物に見られます。この時代の代表的な建築物の中に鹿苑寺金閣という金箔で壁を塗った有名な建物があります。この建物は3層からなり、一階が寝殿造り、2階が和様、そして3階が禅宗様になっています。

 芸能の世界でも多くのものが発展しました。そしてこの北山文化の下で能が栄えます。能は日本最古の音楽劇であり、能の役者は漆で塗られた木製の面を付け能を演じます。その為、様々な能面もつくられました。観阿弥と世阿弥が芸術性の高い猿楽能を北山文化の時代に完成させます。猿楽能は猿楽から来ており、猿楽は狂言と能の原型でもあります。(猿楽とは物まねや滑稽なしぐさをする芸です。)

 

Kinkaku Rokuon temple

 

           東山文化 は 室町時代の文化の一つであるにもかかわらず、北山文化とは異なった文化であります。東山文化の基礎は禅の精神、幽玄の美、そして侘の美でした。砂利と岩石で構成されている日本庭園は禅の精神からつくられたものです。「幽玄」と「侘」は日本の伝統的芸術の華道や茶道などに見ることが出来ます。 そして、華道と茶道の基礎は東山文化の時代に形成されています。

八代将軍の足利義政 は慈照寺銀閣を建てました。その建物は2層で構成され、一階は書院造、そして二階は禅宗様で成り立っています。寝殿造りとは異なり、この書院造は現在の日本の家の基礎となりました。例えば、室内の床にはすべて畳が敷かれていることや、障子やふすまなどで部屋の空間が仕切られていること、そして天井が張られたことです。

     室町時代の食べ物の変化が現れたのは新しい食物の伝来、新しい調味料の使用、そして新しい調理法が要因でした。庶民と武士の間で食べられていたお米は姫米といい、 それは茹でて食べられていました。この調理法によってお米をやわらかく食べることが可能になります。そして この姫米が今の日本で食べられているお米でもあります。しかし 室町時代の貴族は伝統的な食べ方を守り、お米を蒸して食べていたため お米は硬かったようです。貴族は1日2回の食事でしたが武士や農民そして僧侶などのように間食の習慣が始まりました。武士や農民、僧侶が間食をはじめたのは重労働や特訓のため一日2回の食事だけでは体が持たないためでした。

  味噌は鎌倉時代にすでに食べられていましたが、味噌汁は室町時代に作られ始めます。記録によると、味噌汁は戦場にて食べられていたことがはじまりだそうです。醤油は1500年代に初めて作られ、料理に醤油をつかって味付けを始めます。日本とポルトガルの貿易が始まると、いくつかの新しい食物が日本に持ち込まれました。資料によると、唐辛子、かぼちゃ、そしてパンがポルトガルとの貿易によって日本に持ち込まれました。ポルトガルからの宣教師は日本に牛肉を食べるという習慣をもたらしました。この当時、日本では 牛は畑を耕すものという考があったため牛を食べる習慣は無かったようです。そして食べ物ではありませんが もう一つ日本に持ち込まれたものがあります。それはタバコでした。

Miso soup

                   

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